始まりは漁師から

始まりは漁師から

中村漁業部の始まりは大正五年、稚内の鮮魚店がスタートでした。
私の曽祖父が初代で、自分は四代目にあたります。

鮮魚店から始まった弊社は、漁師になります。
漁船の名前は「日枝丸」。当時は北方領土付近でエビを獲っておりました。
しかし、漁船経営は日ソ漁業交渉(当時はソビエト連邦、と呼ばれてました)という
政治的なものがあり、やむなく減船。
漁船経営をやめたその後は、同時に行っておりました
水産加工に一本化する事により現在に至ります。

社長自らセリ落とす

上の帽子は 「仲買」 と呼ばれ、八戸魚市場での入札権を持った帽子です。
原料となるイカ、タコ、鱈は地元八戸魚市場で買い付けます。

屋号は、カネナカ、セリの現場では「 セブラでカネナカ 」などと落札価格と落札業者の名前が叫ばれます。
会社名の中村漁業部では、長くて呼びずらいので、一種のあだ名のような、いわゆる略称を付けるのです。

ちなみにセブラは千円で、ギラは百円単位。
セリの現場では「 セブラ、ブラ、ブラ 」などと言って、セリ人が価格を提示します。セブラはもちろん業界用語。
そして語源は分からない。しかし、この用語を理解できないとセリには参加できない、という少し理不尽な構造。

この帽子を取るには少なくとも、3年間の修業、そして推薦状が必要です。

受け継ぐ職人技

私が地元に帰ったのは今から15年前、もちろん当時は20代。

大学を留年してから、ようやく帰ってきて。一番驚いたのは、工場長から男性はほとんどが「 元漁師 」という状況。
製品作りも「 丁寧な指導 」ではなく「 仕事は盗んで覚えろ! 」という工場長でした。

まぁ、皆さん元漁師ですから、とにかくおぼえるのが大変でした。

もちろん、魚の味にはうるさい方(厳しい)ですから、
美味しく作れ、もっと品質良く、そんな指導を受けておりました。

しかし、美味しく、と言ったときにその根拠は何だろう。
工場長の言う 「良い品質」 は、物理学で裏付けする事が可能だったのです。

職人、と聞けば気難しさをイメージされるかもしれませんが、実際には理論的、そして無駄な動きがない。
ただ、そんな技術を言葉で表現するのは難しかったのでしょう、
盗んで覚えろ、は仕方のないのかもしれません、が、しかし経営者ですから、さすがにこの方針はどうだろう。

私の仕事は決まりました、職人を科学する事です。

自社製造だから、良い品質

私の大学時代ですが、アウトソーシング、などという言葉がやたらと流行して、
一貫生産は非能率、なんてキャッチコピーをよく見かけましたね。

しかし、自社生産でしか作れない品質があります。
例えば鮭とばの味ですが、100回以上は改良のために変更しております。

「作るたびに改良を重ねて」 と言えばカッコよく聞こえますが、
しかし、この作業を外注したらどうでしょう。
さすがに良い顔はされませんね。やはり製品の根幹、となる部分は自社で管理しなければなりません。

そして育ててゆく、 従業員も、 そして製品も、

だからメーカーによって製品の味は違うのです。

店長 中村 茂

沿革

創業 大正4年 初代中村藤吉、西津軽郡鰺ヶ沢で鮮魚卸商並びに各地に鮮魚出荷組合を営む。
創業 大正4年 初代中村藤吉、西津軽郡鰺ヶ沢で鮮魚卸商並びに各地に鮮魚出荷組合を営む。
昭和16年 沖合底曵網総漁業経営
昭和18年 鰺ヶ沢にて沖合底曵漁船新造経営
昭和19年 国の方針が日本海は40トン未満船のみ操業可能。40トン以上船は太平洋海域で操業することに省令が発令、40トン以上の新造船であったため八戸港に本拠地を移し、引き続き沖合底曵漁業を経営
昭和24年11月 先代が経営する沖合底曵漁業と共に、イカ釣り、鮭、鱒延縄漁業を経営する
昭和30年7月 北海道、稚内市に進出、新たに沖合底曵漁業経営
昭和38年12月 個人商店から株式会社中村漁業部に移行、引き続き沖合底曵漁業、イカ釣り、鮭、鱒延縄漁業を経営する
昭和43年7月 (株)稚内支店廃止、稚内遠洋漁業を退会
昭和53年7月 八戸市尻内町に冷凍加工工場を新設し、いか、さば、たら等珍味製造並びに冷凍魚生産操業する
昭和61年7月 沖合底曵漁業を政府の方針により減船した。漁業を廃業、冷凍加工場のみの経営にて現在に至る